磐余の道周辺を歩く ~桜井から山田寺へ~
掲載日:2012年11月1日
桜井から飛鳥へかけての土地は古くは磐余(いわれ)と呼ばれていました。磐余地の西にあった大津皇子の挽歌(ばんか)で名高い磐余池は、現在ではその遺構が東池尻町で発掘されたことで場所がほぼ確定されています。磐余は奈良盆地から飛鳥への入口で、桜井駅のすぐ南には磐余山や芸能発祥の地といわれている土舞台、多くの古墳もあり、のどかな丘陵の散策を楽しめる地域です。
JR・近鉄桜井駅~磐余山(東光寺)~若櫻神社~土舞台(安倍山城跡)~安倍文殊院~安倍寺跡~吉備池~稚櫻神社~南山町八幡神社~山田寺跡~飛鳥資料館(徒歩約4時間)
今回はJR・近鉄桜井駅南口を起点に、そのまま南へ向かって歩きましょう。すぐに交差する国道165号は、古代の官道「横大路」です。磐余の道をたどり、道端に地蔵を見ながら川沿いに進んでいくと、「磐余山 東光寺」の小さな立て札があり、磐余山へ登ることができます。登山道のなかほどからは多武峯(とうのみね)の山々や、三輪山がきれいに見えます。地蔵のところまで戻り、さらに道を進んでいくと若櫻神社です。鳥居のすぐ傍には桜井の地名の由来となった「若桜の井戸」が復元されています。
そこからさらに南西へ向かうと土舞台に出ます。ここは聖徳太子が百済人の味摩之(みまし)が伝えた伎楽(ぎがく)を少年たちに習わせたと伝えるところで、安倍山の中にあります。中世には城として戦場にもなった安倍山城跡でもあります。山を下ると安倍文殊院や安倍寺跡があり、この地の歴史の古さを物語っています。そこから西に進めば吉備春日神社、吉備池、そして吉備池廃寺跡です。吉備池廃寺は塔の土台に痕跡を残すだけで、付近はのどかな田園地帯に変貌しています。池の周辺からは遠く二上山を望むことができます。
吉備池から南の方角に進むと稚櫻(わかざくら)神社があります。木立をぬけ石段を上れば歴史を感じる神社の本殿があり、多くの神々が祀られている祠や磐が点在します。この神社の西側が磐余池の推定地です。神社から眺めると西側に低い土地が広がり、地形からもここに池があったのだろうと推測されます。のどかな風景の中に、隠された歴史を感じる場所です。稚櫻神社の東側の道を南へ進み、小さな峠を越え南山町へと入ります。八幡神社の前を通り、坂を登っていけば山田の集落で、大化の改新で功績をあげた蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が建立した山田寺跡があります。
大化の改新の後、石川麻呂は謀反の疑いをかけられ、未完成の山田寺で自害しました。しかしその後も寺は建設されつづけ、天武天皇の時代に完成します。そこには石川麻呂の孫に当たる持統天皇の力も影響しているようです。持統天皇の母である石川麻呂の娘である遠智娘(おちのいらつめ)は、父のため中大兄皇子(後の天智天皇)に嫁ぎますが、父は自害に追いつめられてしまうという状況のなか、心を病んでしまったとも伝えられています。そんな祖父と母に対する思いが、山田寺には込められているようです。山田寺についての詳細は飛鳥資料館で知ることができます。
磐余山から見た三輪山 | 若桜の井戸 | 土舞台の石碑 | 安倍文殊院 |
安倍寺跡 | 吉備池から二上山を望む | 山田寺跡 | 山田寺跡付近から畝傍山を望む |
磐余池跡地
ももづたふ磐余の池になく鴨を 今日のみ見てや雲隠りなむ
訳:磐余池に鳴く鴨をみるのも今日かぎりで、私は死んでしまうのだろう
父天武天皇の崩御の直後、謀反の罪で磐余にある訳語田(おさだ)の自邸で死を賜った大津皇子の名高い歌です。「今日のみ見てや」のことばに、皇子の自分の運命への覚悟を見て取れるようです。
2011年12月、今まで特定できなかった磐余池堤跡が発掘によって確かめられました。それにより、池の範囲も判明し、戒外川(かいげがわ)を塞き止めた日本最古のダム式の人造湖である可能性が高まっています。「雲隠る=死ぬ」ことを覚悟した24歳の若者は、その池を見ながら辞世の歌を詠んだのです。哀しい歴史と美しい和歌は、いつの世も人々の心を魅了して止みません。
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