下街道とその枝道を行く ~何気ない日常の風景の中に残された歴史に出会う~
掲載日:2012年8月1日
奈良には古代から近世までさまざまな街道が通っています。観光コースとして人に知られている道や、生活に利用されている道、そして、いつしか街道だったことを忘れられてしまった道。今回はかつて多くの人々が行き交いながらも、歴史ある道標や灯籠を残して、忘れられてしまった道を再発見します。
近鉄筒井駅~筒井城跡~国道25号~馬司町~筒井順慶墓~近鉄平端駅~額田部集落~推古神社~額安寺~安堵町~極楽寺~富本憲吉生家~冨生の松~高安の集落~業平橋(徒歩約3時間)
近鉄筒井駅の東、宅地の中に石碑がぽつんと建っています。戦国武将筒井順慶の筒井城跡です。筒井周辺は道が細く曲がり迷路のようになっており、筒井城があった時代の名残といわれています。筒井城の西を南北に通る下街道は、大和高田、葛城、五條へと続く道。街道は完全な形では残ってはいませんが古い町並みが今も残ります。下街道を南へ下り国道25号を渡ると、交差点脇には「筒井村道路元標(げんぴょう)」があります。ここは難読地名として知られる馬司(まつかさ)町で、住宅地の道沿いに古い道標が見られます。さらに進み、田の傍にある古い道標に従って分かれ道を右にとると筒井順慶の墓です。
西へ向かい、近鉄平端駅の踏切を渡って住宅地を進みましょう。道端に江戸時代の伊勢詣りの灯籠が建っています。この付近から地名は額田部(ぬかたべ)になります。飛鳥時代の女帝推古天皇は幼名を額田部皇女といい、この土地と関係が深いようです。道は集落の中をくねくねと曲がりながら続き、道端の格子のある家や灯籠、道標がこの道の古さを物語ります。やがて小さな坂をおりていくと、旧額安寺(かくあんじ)の境内です。現在の額安寺の規模はこじんまりしていますが、かつては額田部寺町といわれている地域すべてが境内で、その前身は聖徳太子の創建の熊凝精舎(くまごりしょうじゃ)と伝えられています。寺の北側には鎌倉時代の五輪塔があり、また近くには古墳の上に造られた推古神社があります。
下街道はさらに板屋ヶ瀬橋で大和川を渡り南下していくようですが、今回は業平道と考えられる安堵町(あんどちょう)への道を進みましょう。額安寺北側から西へ進路を取り大和中央道を渡ると、やがて道端に小さな古い道標が見えます。「丹波市(たんばいち)道」「左 三輪長谷」、反対側には「右 龍田法隆寺、大坂」と刻まれ、かつて天理から竜田への道が通っていたことがよくわかります。安堵町の入口付近には、古い梵字(ぼんじ)の刻まれた塔が建てられ、集落の中には、昨年本尊が広島大仏であることが判明した極楽寺があります。陶芸家で人間国宝であった富本憲吉の生家も近く、2012年10月13日からは富本憲吉資料館として土曜・日曜のみ公開される予定です。さらに道を進むと、古い町並みと飽波(あくなみ)神社の立派な社殿が見えてきます。
神社を過ぎてしばらく行けば、やがて大和路線の線路が見えてきます。線路近くの善照寺境内には「冨生(ふしょう)の松(根上がりの松)」という見事な枝振りの樹齢250年の松が生えています。JR大和路線の小さな踏切を渡れば高安の集落です。数多くの女性と浮き名を流した在原業平(ありわらのなりひら)に見初められないようにと、この村の娘は顔に墨を塗ったという伝説が残っています。集落を抜けると富雄川の堤防が見え業平橋に出ます。7月号で辿った竜田道はここから西へ延びていきます。業平橋からは国道25号へ出れば、バスを利用して筒井や王寺に出ることができます。
筒井城跡 | 国道25号近くの古い町家 | 道沿いの道標 | 筒井順慶の墓 |
額田部の集落 | 額安寺五輪塔 | 安堵町にある飽波神社 | 冨生の松(善照寺境内) |
富本憲吉と安堵町の風景
富本憲吉作品と聞いて、金の色彩豪華な作品を思い浮かべられる方も多いでしょう。しかし、憲吉は、それとはまったく趣の異なるのどかな田園風景を描いた作品「村落遠望」なども残しています。安堵町で生まれ育った富本憲吉は、安堵町の風景を愛しました。安堵町を歩くと、もしかしたらここを描いたのだろうかと思わせるような風景に出会います。
かつては古い街道沿いにあった安堵町ですが、現在は鉄道の駅からは少し離れた地域にあるからか、昔ながらの大和の風景が、手つかずのまま残されています。古い街道を歩けば、大和川と富雄川に挟まれたのどかな田園地帯にも、多くの人の思いと、長い歴史が刻まれていることがわかります。
富本憲吉生家 | 安堵町の風景 |