第126回 勝手に奈良検定
問題1 |
写真は『大和名所図会(ずえ)』に描かれた、飛び込みに興じるちょんまげの男性たちです。ところで、この場所はどこ? 1.猿沢池 |
正解は、3の宮滝。
『大和名所図会』は寛政3年(1791)刊行の江戸時代の奈良のガイドブック。神社仏閣の鳥瞰図や、景勝地、名跡、人々の暮らしや行事、伝承の世界の一場面など、全部で183点の絵が収められています。絵の前後には土地土地の名所旧跡や歴史などについて解説があり、社寺巡りがレクリエーションでもあった時代らしく、境内の見どころや謂われなどがたいへん細かく記されています。
両岸に切り立つ断崖と深い淵に、エメラルドグリーンの水をたたえる宮滝は、神仙境の入口に広がる風光明媚な地として知られ、天武・持統天皇など歴代の天皇たちがしばしば訪れました。しかし江戸時代には岩飛びと称するパフォーマンスで見物代を稼ぐ里人も。この絵もまさに、岩飛びのワンシーンでしょう。絵の続きには、楽しげに見物する人々も描かれています。
問題2 |
日本仏教史に残る奈良県ゆかりの名僧、行基(ぎょうき)と忍性(にんしょう)。2人の墓が祀られるのはどこでしょう。 1.竹林寺 |
正解は、1の竹林寺。
行基は奈良時代の僧侶。法相宗を学び諸国で橋を架け堤を築くなどの社会事業を行い、民衆から「行基菩薩」と慕われました。一時は弾圧されるものの、聖武天皇は行基を大仏造営の勧進に取り立てます。喜光寺の本堂は行基が大仏殿を造るに際して建立されたと伝え、〝試みの大仏殿〟とも呼ばれます。一方の忍性は鎌倉時代の僧侶で、磯城郡三宅町出身。西大寺の叡尊(えいそん)を師とし貧しい人や病人救済に尽力します。
鎌倉に移った後も社会事業に努め「忍性菩薩」と呼ばれました。その忍性が強く慕ったのが行基です。死後は現在の生駒市の竹林寺に埋葬されましたが、忍性は行基を思い足繁く参詣し、なおかつその事績を思い自らも社会事業に汗したのです。現在竹林寺には本堂に向かい右に行基、左に忍性の墓があります。忍性の遺言で、遺骨は極楽寺(鎌倉市)、額安寺(大和郡山市)に分骨されています。