第114回 勝手に奈良検定
問題1 |
奈良県では珍しい先史時代の復元住居。周囲には緑がいっぱいです。さて、何遺跡でしょうか。 1.唐古・鍵遺跡 |
正解は、4の「大川遺跡」。
大川遺跡は、奈良市からさらに東の山中に位置する山添村にあります。山添村一帯には、縄文時代から人々が生活していたことがわかっており、昭和31年(1956)に発見された大川遺跡は、縄文時代早期の遺跡として知られています。遺跡からは2つの住居跡や、調理場として用いられた集石炉などのほか、近畿地方では最も古い段階の押型文土器が見つかりました。土器は「大川式」として、縄文時代の年代決定の基準資料となっています。現在は遺跡公園「大川カントリーパーク」として整備され、復元住居のすぐ近くで魚釣り、バーベキュー、キャンプを楽しむことができる、まさに縄文人の気分を体感できる施設となっています。
1の唐古・鍵遺跡は、磯城郡田原本町にある弥生時代の環濠集落遺跡です。奈良盆地のほぼ真ん中にあり、大型建物や高床・竪穴住居、井戸などが発見されました。生活用具のほか鋳造関係の遺物や楼閣を描いた絵画土器など珍しい遺物が出土しており、集落の性格を考えるうえでの貴重な資料となっています。展示品は唐古・鍵考古学ミュージアムで展示しています。2の宮滝遺跡は、吉野郡吉野町にあります。断崖切り立つ、エメラルド色の清流美しい吉野川沿いにあり、縄文時代から奈良、平安時代までの、異なる時代の遺跡が重なる複合遺跡となっています。また天武天皇や持統天皇らが何度も足を運んだ吉野宮が置かれたとも考えられており、古代の人々も慈しんだ聖地・吉野の大自然を満喫できることでしょう。
3の布留遺跡は天理市にあり、宮滝遺跡と同じく複数の時代の遺構を出土する複合遺跡で、旧石器時代から、おもに古墳時代にかけての遺構が発見されています。とくに古墳時代では、建物や遺物の状況から、祭祀遺跡の性格が強いと考えられています。また古墳時代の時期の基準となる「布留式土器」は全国で確認され、大和王権の広がりを示すうえでも貴重な資料となっています。出土品は天理参考館で見ることができます。
問題2 |
万葉集で選定された秋の七草のうち、「朝貌(あさがお)」の名所として知られるのは、次のどこでしょう。 1.元興寺 |
正解は、1の「元興寺」。
秋の七草は皆さんご存知ですね。ハギ、ススキ、クズ、カワラナデシコ、オミナエシ、フジバカマ、キキョウの7種です。実はこれを定めたのは、山上憶良といわれています。
「秋の野に 咲きたる花を 指折り(およびをり) かき数ふれば 七種(ななくさ)の花」(巻8-1537)
「萩の花 尾花 葛花 瞿麦(なでしこ)の花 姫部志(をみなへし) また藤袴 朝貌の花」(巻8-1538)
山上憶良が『万葉集』で詠った花はそのまま「秋の七草」として今も親しまれています。春の七草が食べられる花なのに対して、秋の花は観賞が専門です。
ところで万葉集に詠まれている植物は、その種類が現代のどの花に当たるのか、複数の説がある植物がたくさんあります。「朝貌」もその1つです。音で聞くと今の「朝顔」が思い浮かびますが、万葉集の時代には、キキョウもしくはムクゲを指していたと考えられています。また901年ごろにまとめられた最古の漢和辞典には、キキョウの花を「阿佐加保(アサカホ)」としていることから、現在はキキョウ説が有力です。
選択肢の場所は、それぞれ秋の七草で知られるところです。1の元興寺はキキョウ(朝貌)の名所。境内の浮図田(ふとでん)に並ぶ石仏の間に点々と紫の花が咲き、素朴な野辺の風景を思わせてくれます。2の白毫寺と4の唐招提寺は萩の名所。白毫寺では、山門に続く長い石段を覆い尽くすように、両側から萩が勢いよく繁ります。また唐招提寺も境内の参道沿いにボリュームたっぷりに葉が繁り、可愛らしい花を咲かせます。3の曽爾高原は「尾花」と呼ばれたすすきの名所。お亀池を中心とした湿原に黄金色の穂がざわざわと騒ぐ秋の夕景は、まさに絶景といえるでしょう。奈良の秋を探しに出掛けてみませんか。
問題3 |
次のお寺と神社の組み合わせで、間違っているものはどれでしょう。 1.東大寺-手向山(たむけやま)八幡宮 |
正解は、4の「室生寺-與喜天満宮」。
日本古来の神道と、大陸から渡ってきた仏教は、当初は別々に発展してきました。しかし平安時代になると徐々に神仏習合のかたちをとり、融合していくようになります。明治維新後、廃仏毀釈によって、神社とお寺の混然一体とした関係はなくなりますが、境内やその近くにある社寺どうしは、かつて密接なつながりをもっていたことがうかがえます。
4は、宇陀市室生の室生寺と、桜井市初瀬の與喜天満神社ということで、組み合わせにするには距離が離れすぎています。室生寺と密接なかかわりをもった神社は、水の神である龍神を祀る龍穴神社です。龍穴神社の方が歴史が古く、かつては室生寺が神社に附属する神宮寺であった時代もありました。また、與喜天満神社は、長谷寺に信仰を寄せた菅原道真を祭神とし、長谷寺と長谷の町を守護する鎮守社です。10月の初瀬祭りでは、御輿が長谷寺の山門前まで巡幸するなど、お寺と神社とのつながりがうかがえます。
1~3の八幡宮は、いずれも大分の宇佐八幡宮から勧請(かんじょう)されたものです。1の手向山八幡宮は東大寺法華堂の南に位置しています。天平勝宝元年(749)に東大寺や大仏建立を守護するために勧請され、八幡宮からの分社としては日本一古い事例です。2の元石清水八幡宮は現在の寺域から80mほど南に位置し、大同2年(807)、大安寺の鎮守として勧請されたといわれます。3の休ヶ岡八幡宮は南大門の南にあり、薬師寺を守護するために寛平年間(889~898)に勧請されました。社寺参拝のときには、このようなことも気に留めながら見てみると、面白いかもしれませんね。