第110回 勝手に奈良検定
問題1 |
石畳の上を走る車。大阪府との境を示す標識も見えます。さて、この道の名称は、次のどれでしょう? 1.滝坂道 |
正解は、4の「暗越奈良街道」。
石畳の上を車が走るのは、古い町ならそう珍しいことではないかもしれません。しかし、もしこの道が「国道」だと言ったら?! 暗越奈良街道は、奈良から枚岡を通って大坂へと向かう古くからの幹線道路の1つでした。生駒山を越えて奈良と大阪を結ぶ道には今もいくつものルートがありますが、なかでも特徴的なのがこの暗越奈良街道。実は全国の〝酷道〟(国道)マニアの間ではよく知られる、石畳のある国道(国道308号)なのです。
石畳が敷かれているのは、奈良県生駒市と大阪府東大阪市の境にあたる暗峠の短区間。現在でも車が行き来する峠ですが、その前後には車1台がやっと通れるほど狭い箇所もあり、珍しい国道を一目見ようと、遠くからはるばる訪ねてくる人も多いとか。暗峠を生駒方面に下ったところには、美しい里山の景観をつくる棚田も見られ、とくに春から秋にかけては心癒される日本の原風景が広がります。さらに南生駒駅まで下る道々には石仏も多く見られ、四季を通じてハイキングが楽しめます。
1の「滝坂道」は、奈良と柳生を結ぶ道。同じように石畳が続きますが、こちらは徒歩で行く山道です。春日原始林の深い緑の中を通る道は昼でもうっそうとしていますが、ところどころに石仏が刻まれ、石畳の道の疲れを癒してくれます。2の「伊勢街道」は、その名の通り、奈良を通って伊勢神宮参詣を目指す道です。「伊勢本街道」と呼ばれる最短ルートは、奈良から三輪、初瀬を抜け、宇陀市榛原、曽爾村、御杖村などを経由して伊勢に向かいますが、途中、往時の街道の雰囲気が残る集落も多く、味わい深い道です。3の「太子道」は、聖徳太子が斑鳩と飛鳥とを往復した道です。東西南北が垂直に交わるのが普通だった古代にあって、この道は斜めに走っていることから、通称「筋違道」。便利な生活の道として、今も現役で頑張っています。春爛漫の奈良大和路。ご自身の足で歩かれて、ぜひその魅力を体感してみてはいかがですか。
問題2 |
一目千本といえば吉野山の桜。では一目百万本といったら、次のどれでしょう? 1.葛城山のつつじ |
正解は、1の「葛城山のつつじ」。
「花は吉野」と謳われる吉野山の桜のほかにも、奈良県には花の名所がたくさん。とくに5月はいろいろな場所で大群落の草花を楽しむことができます。「一目百万本のつつじ」として知られる御所(ごせ)市の葛城山は、標高959.7m。眼下に大和平野を一望する展望の良さが抜群で、ハイキングコースとして人気の高い山です。麓から山頂までロープウェイも運行しているので家族で気軽に登ることができます。吉野山になぞらえた「一目百万本」のつつじは、5月上旬から咲き始め、中旬にかけてが見頃。数えられないほどのつつじで山頂一面が真っ赤に染まるさまは圧巻。例年大勢の人で賑わいます。秋はすすき、冬はそりなどの雪遊びと、四季折々楽しめる山です。
同じつつじの名所では、4の鳥見山公園(宇陀市)やフォレストパーク神野山(山添村)もおすすめです。鳥見山公園は約3000本、フォレストパーク神野山は約1万本、いずれも眺望が楽しめ、春のおでかけにはぴったりの場所です。またお寺では、船宿寺(御所市)や長岳寺(天理市)、金剛寺(五條市)などが名所として知られています。
また5月といえば花しょうぶ。公園では依水園(奈良市)、柳生花しょうぶ園(奈良市)、大和民俗公園(大和郡山市)、馬見丘陵公園(広陵町)、滝谷花しょうぶ園(宇陀市)など、社寺では不退寺(奈良市)、高鴨神社(御所市)、浄瑠璃寺(木津川市)などが知られます。なかでも不退寺は黄しょうぶが美しく、青や紫とはまた違った可憐さが人気です。やや冷しい山間部の室生寺(宇陀市)や長谷寺(桜井市)、岡寺(明日香村)、玉置神社(十津川村)、21世紀の森・紀伊半島森林植物公園(十津川村)では、5月中旬ぐらいまでしゃくなげが楽しめます。薄いピンク色の大輪の花は、初夏の訪れを知らせる妖精のようです。各地の花情報は、こちら。
問題3 |
奈良市の称名寺は、ある茶人ゆかりの寺。 1.武野紹鴎(たけのじょうおう) |
正解は、3の「村田珠光」。
近鉄奈良駅にほど近い称名寺は、鎌倉時代の文永2年(1265)に、興福寺の学僧だった専英・琳英の兄弟が創建したと伝えています。創建当時は興福寺の別院で、浄土宗、法相(ほっそう)宗、天台宗、律宗のいずれをも学ぶことができる四宗兼学の寺として栄えました。しかしその後、何度も火災に遭い、いまは往時の面影はありませんが、寺勢の盛んだった室町時代には、東西400m、南北300mもの寺域を有し、いくつもの伽藍が建てられていたと伝えています。
この称名寺にゆかりの深い人物が、「わび茶」を創始した茶人・村田珠光(じゅこう/しゅこう)です。珠光は応永29年(1422)に現在の奈良市中御門町に生まれ、11才で称名寺に入りました。25歳の頃、いったん還俗(げんぞく)しますが、その後、京都の大徳寺に入ります。そして、茶の湯と、一休禅師から学んだ禅の思想とが一体となった「茶禅一味」の境地を開きました。それは当寺、豪奢に華々しい席を設けることが当たり前のようになっていた茶席ではなく、簡素な中にこそ精神性、さらには芸術性を見い出そうとするわび茶の始まりでした。現在伝わっている日本の茶道とその精神は、珠光のわび茶に起源を見い出すことができます。
珠光の死後、1の「武野紹鴎」らに継承されたわび茶は、日常に用いられる器を茶席に取り入れるなどし、ますますわび・さびの精神性を高めていきます。これを大成したのが、2の「千利休」でした。利休から、現在の表千家・裏千家・武者小路千家の三千家が生まれ、その後、江戸時代に入って、茶道は庶民にも広がっていきます。その一方で、武士のたしなみとしても重視され、小堀遠州や、4の「片桐石州」らにより、大名茶として流派も形成されました。石州流をなした片桐石州は、父の菩提を弔うために慈光院(大和郡山市)を建立しましたが、それは石州のプロデュースによる、茶を楽しむための壮大な空間でもありました。茶の湯の源流の地、奈良。毎年5月15日、称名寺では珠光忌が行われ、訪れた人にはお茶の接待があります。