第109回 勝手に奈良検定
問題1 |
一見不思議な石造物がたくさんあることで知られる明日香村。では同じ明日香村にあり、直線距離で写真の石から一番遠いところにある石造物は、次のどれでしょう。 1.鬼の雪隠(せっちん) |
正解は、2の「猿石」。
まず写真の石造物の名前はわかりましたか? ご存知の方も多い「亀石」です。明日香村川原にあり、花崗岩製の大きな体に微笑んだような表情のかわいらしい顔は、明日香に数多くある石造物の中でも人気抜群。しかし、かわいい顔からは想像もできない怖い伝説も…。それによれば、亀石はかつては北を向いており、次に東を向きました。現在は南西を向いていますが、これが西を向いたとき、大和平野一帯は泥の海と化すと言われています。では個々の選択肢を見ていきましょう。
1の「鬼の雪隠」は、亀石からは直線距離にして約600m西南、明日香村野口に位置し、すぐ近くに「鬼の俎(まないた)」があります。実は、雪隠は古墳の石室の蓋石で、俎は石室の床石(底石)。種が明かされれば「謎の…」ではなく、古代飛鳥の歴史の一端を目の当たりにしている醍醐味を味わえます。2の「猿石」は、亀石から西南西へ約1.5km、明日香村平田の吉備姫王墓の西側にあります。4体の内の3体に裏にも顔があり、独特の雰囲気をもつ石像です。制作年代や目的は不明です。
3の「二面石」は、亀石からはほぼ真東に約400m、橘寺の境内にあります。橘寺は聖徳太子建立七大寺の1つといわれますが、はっきりした創建年はわかりません。二面石は高さ約1m、善と悪の人間の心の二面性を表すと言われています。4の「益田岩船」は亀石からは直線距離にして約2km、ほぼ東西一直線のラインに並びます。益田岩船は、東西約11m、南北約8m、高さ約4.7m、重さは約800tもあると言われ、上部には1辺約1.6m、深さ約1.2mの穴が穿たれています。現在では、横口式石槨(せっかく)の建造途中で、亀裂が入ったためそのまま放棄されたものと推測されています。というわけで正解は4の益田岩船といいたいところですが、場所が橿原市なので問題の条件から対象外。したがって、次に遠い2の猿石が正解となります。
問題2 |
式年造替が行われている春日大社。本殿の建築様式は「春日造」と呼ばれ、たくさんの神社で見られます。では次のうち、春日造ではない建物はどれでしょう。 1.宇太水分(みくまり)神社本殿 |
正解は、4の「丹生川上神社本殿」。
まず、春日造について紹介しましょう。春日造とは、春日大社の本殿に代表される神社の本殿形式の1つで、奈良時代の中頃に成立したと考えられています。本を開いて伏せたような反りのある屋根をもち、正面に大屋根と一体になった片流れの庇(ひさし、向拝)が付けられます。寺院建築の影響を受け柱も朱塗りとされ、日本各地の神社に非常に多く見られる形式です。本殿の形式には、神明造(しんめいづくり)、八幡造、大社造、住吉造など様々なものがありますが、4の丹生川上神社本殿は流造(ながれづくり)。正面側に下りてくる片側の屋根だけが大きく伸び、そのまま庇となったものです。丹生川上神社本殿は文政11年(1828)から約12年かけて建設され、極彩色や花鳥の装飾などに、往時の壮麗絢爛な姿が偲ばれます。
1の宇太水分神社本殿三社(国宝、宇陀市菟田野古市場)は、一間社隅木入り春日造。第一殿の棟木には元応2年(1320)の墨書があり、かなり古い時代のタイプとされ、第三殿も同時期の建立と考えられています。外部の朱塗りには極彩色が施され、壁板の花鳥風月が美しい華やかな社殿です。2の談山神社本殿(重文、桜井市多武峰)は祭神・藤原鎌足を祀り、大織冠社などとも称する三間社隅木入春日造の建物です。現存の本殿は嘉永3年(1850)に建て替えられたものですが、日光東照宮造営の手本ともなったほど。往時の絢爛豪華ぶりを伺い知ることができるでしょう。
3の円成寺白山堂(国宝、奈良市忍辱山町)は、同じく境内の同形同寸の春日堂とともに、2社で国宝となっています。現在の春日大社である春日社造営の折、旧社殿を拝領して円成寺の鎮守社とし、春日大明神、白山大権現を祀りました。現在、全国で最も古い春日造の社殿で、小さいながら、歴史の風格を感じさせてくれます。奈良県にはほかにも葛城市の博西神社本殿(重文)など、目を奪われるような春日造の本殿がたくさんあります。神社参拝の際は本殿の造りにも注目すると、面白さが倍増することでしょう。
問題3 |
奈良時代に大陸から日本にわたってきた仏教。 1.華厳宗 |
正解は、3の「融通念仏宗」。
融通念仏宗は、大阪、奈良、京都南部、三重に末寺をもつ日本古来の宗派で、その歴史は約900年前の平安時代末期にさかのぼります。開祖は良忍上人。良忍ははじめ天台宗を学ぶため比叡山に入りますが、若くして寺の世俗化を嘆き、京都大原に来迎院を建てて修行を行いました。46歳のとき阿弥陀如来の教えを感得し、融通念仏を広めるため、念仏勧進を行う決心をします。仏教は当時、貴族だけのものであり、良忍上人の勧進は庶民に仏教が開かれていく先駆けとなりました。融通念仏はやがて土着の民俗信仰とも結びつき、日本各地に広まりました。
ところで奈良時代に大陸からわたってきた仏教。その宗派は古来、13宗56派と称されましたが、戦後複雑化し、現在では160派ほどになっています。しかしその基本は13宗に変わりありません。すなわち法相(ほっそう)宗、華厳宗、律宗、天台宗、真言宗、融通念仏宗、浄土宗、臨済宗、浄土真宗、曹洞宗、日蓮宗、時宗、黄檗宗の13宗です。融通念仏宗は、日本仏教13宗のうちで成立順にみると6番目であり、のちの鎌倉新仏教(浄土宗、浄土真宗、日蓮宗など)の先駆けとして誕生した日本初の国産仏教です。「大念仏宗」「融通大念仏宗」と親しまれ、民間によく広まった反面、宗派として幕府から公認されたのは江戸時代となりました。
奈良との関わりも深く、おもに開祖良忍上人のエピソードにみることができます。万葉集に詠まれた中大兄皇子の歌に、耳成山・畝傍山・香具山の争いの話がありますが、それを題材にした謡曲「三山(みつやま)」には、死んだ女の霊を念仏を唱えて成仏させる良忍上人が登場します。また良忍上人は、現在伝わっている仏教音楽である声明(しょうみょう)の基盤をつくったといっても過言ではないほど、声明をよくまとめ、同時に声明の名手でもありました。その声に吉野山の勝手明神も、自ら御輿を進まないようにして聴き入り、その力のみなぎりをはかったといいます。そのため京都大原には勝手明神が勧請されています。