第105回 勝手に奈良検定
問題1 |
平成27年~28年にかけて式年造替を控えている春日大社。特別参拝のなかで見ることができる、ある部屋は、写真の万燈籠を通年体感できる部屋として知られています。さて、その部屋の名前は、次のどれでしょう。 1.藤島之屋 |
正解は、2の藤浪之屋(ふじなみのや)。
平安時代から現在まで、3000基もの燈籠が奉納され、いまも境内のいたるところで燈籠がみられる春日大社。現存する室町時代以前の燈籠の六割以上が春日大社にあると言われ、奉納した人や組織も多様で、歴史的にも価値の高いものがたくさんあります。この燈籠のすべてに火が灯されるのが「万燈籠」。毎年2月3日には「節分万燈籠」、8月14日と15日には「中元万燈籠」が行われています。参道から本殿やその周辺まで、石燈籠、釣燈籠を問わず火が灯る様は美しく、圧巻です。
この万燈籠を通年体感できるのが重要文化財「藤浪之屋」。本殿北西に位置する北回廊にあり、江戸時代までは神職の詰所(つめしょ)であった部屋を利用したものです。部屋には光が射さず、従来も、昼間でも燈籠に火が灯った雰囲気を味わうことができましたが、今回の特別参拝前に改装、これまでよりも多い100基以上もの釣燈籠に火が灯されています。また、部屋のなかに高低をつけて釣られた釣燈籠が暗闇に浮かび上がり、まるでこちらに迫ってくるようで、実に幻想的です。
選択肢の「藤島之屋」「立浪之屋」「八角之屋」は、大相撲ファンならすぐにピンと来るのでは? いずれも相撲部屋をもじったものです。ちなみに奈良出身の力士は前頭九枚目の徳勝龍関(平成26年11月場所現在)を筆頭に、現在3人。また釣燈籠は八角形ではなく、六角形をしています。改装された藤浪之屋見学をはじめ、禁足地の御蓋山浮雲峰(みかさやまうきぐものみね)遥拝所での参拝、140年ぶりに開門された後殿御門(うしろどのごもん)を入っての末社の参拝などができる期間限定「御本殿特別参拝」。前期は12月20日(土)まで、後期は1月8日(木)~3月20日(金)まで(神事のため参拝できないときもあります)となっています。この機会にぜひ。詳細はこちら。
問題2 |
12月17日、夜遅くまで数々の芸能が神様に捧げられる春日若宮おん祭のお旅所祭。では次のうち、日本古来の歌舞(かぶ)である「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」に属さないのは、さて、どれでしょう。 1.社伝神楽(しゃでんかぐら) |
正解は、3の舞楽。
「春日若宮おん祭」は、平安時代末期の保延2年(1136)に創始され、かつては大和国一国をあげて盛大に行われた春日大社の若宮のお祭り。12月17日に日付が変わったあと、松明の明かりに導かれて、若宮神社から若宮が下りてこられ、ちょうど奈良国立博物館の南側にあたるお旅所の御假殿(おかりでん)に渡られます。若宮はここで約1日を過ごされ、しばしの旅を楽しまれたあと、日付が変わらぬうちに発たれて若宮神社に帰られます。このとき、町なかまで来てくださった若宮様をおなぐさめしようと、御假殿の前の芝舞台でさまざまな芸能を奉納するのがお旅所祭です。
おん祭は今では貴重な日本古来の神事や芸能がみられることから、国の重要無形民俗文化財に指定されています。お旅所祭では猿楽や田楽、細男(せいのお)など、多様な芸能が奉納されます。このお旅所祭で目にできるのが、日本固有の歌舞である「国風歌舞」です。国風歌舞とは、雅楽のなかでも外来の音楽の影響を受ける前から伝わる歌や舞のことで、神道や宮中にゆかりのある歌詞や所作が見られ、大嘗祭(だいじょうさい)など特別な場でしか舞われないものもあります。1の社伝神楽、2の東舞、4の和舞はまさにその代表格。日本の史書である『日本三代実録』には、大嘗祭で東舞を近衛の武官が、和舞を神事を司る神祇官が舞ったという記録も残っています。
一方、舞楽は、飛鳥時代から奈良時代に、古代朝鮮や中国大陸から伝わった外来の音楽で、同じ雅楽のなかに含まれますが、国風歌舞とは区別されます。伝来後、日本で現在の形に大成され、中国やインド方面から伝わった左舞(さまい)と、朝鮮半島や渤海から伝わった右舞(うまい)に分けられています。前者は赤色の系統の装束、後者は緑色の系統の装束をつけるのが特徴です。師走の1日、あたたかい服装で、これらの伝統芸能をご覧になってはいかがでしょう。なお、お旅所祭の前には、大宿所祭やお渡り式も行われます。おん祭の詳細スケジュールはこちら。
問題3 |
生きている時代絵巻、春日若宮おん祭は2014年の今年879回目を迎えます。ではこれを始めた人は、次のうち、さて、誰でしょう。 1.藤原不比等(ふひと) |
正解は、4の藤原忠通。
忠通(承徳元年〈1097〉~長寛2年〈1164〉)は、平安末期の公卿で摂政関白太政大臣の地位にあった人物です。鳥羽天皇から後白河天皇まで、4代にわたって関白をつとめ、崇徳(すとく)・近衛・後白河の3代では摂政もつとめています。政治的な人物評はさまざまですが、一般に知られているのは小倉百人一首の歌。法性寺入道前関白太政大臣の名前で、「わたの原 こぎいでてみれば 久方の 雲いにまがふ 沖つ白波」がおさめられています。また書家としての評価は高く、書の大家「三跡(さんせき)」の1人である藤原行成に世尊寺流を学び、のちに自らの書を確立、法性寺流を打ち立てました。雅にして雄々しい書風が特徴です。
この忠通によっておん祭が創始されたのは保延2年(1136)のことでした。関白であった藤原忠通は、保延元年(1135)、大洪水による飢饉を憂い、五穀豊穣を願って、春日大社第3殿の天児屋根命(あめのこやねのみこと)と第4殿の比売神(ひめがみ)の御子神である若宮神のために、神殿を造営しました。その後、祈りが通じたのか、国が平穏になった感謝の気持ちを表わすため、翌年、若宮をお旅所にお迎えして楽しんでいただこうと祭礼を捧げます。以来、幾多の変遷を経ながら一度も途絶えることなく、今日まで続けられてきました。
1の藤原不比等(斉明天皇5年〈659〉~養老4年〈720〉)は藤原鎌足の子、聖武天皇の皇后・光明子(こうみょうし)の父。興福寺の前身・厩坂寺を現在の地に移し、興福寺と改称しました。また春日大社と興福寺はかつては藤原氏の氏社・氏寺として一体であり、一説には約1300年前、鹿島神宮から武甕槌命(たけみかづちのみこと)を御蓋山(みかさやま)に迎え祀った人物ともいわれます。2の藤原頼通(正暦3年〈992〉~延久6年〈1074〉)は栄華を誇った藤原道長の子で、宇治の平等院鳳凰堂を造営した人。春日大社には、ガラス玉で側面を覆った頼通寄進と伝える「瑠璃燈籠」(1038年)が知られます。3の藤原忠実(承暦2年〈1078〉~応保2年〈1162〉)は忠通の父。『栄花物語』続編では春日大社で春日祭を主催するシーンが描かれます。自身は『殿暦(でんりゃく)』で、儀式などの詳細な記録を残しています。