第103回 勝手に奈良検定
問題1 |
2014年10月24日(金)~11月12日(水)まで、奈良国立博物館では「天皇皇后両陛下傘寿記念 第66回正倉院展」が開催されます。 1.『暗夜行路』 |
正解は、4の『寒山拾得(かんざんじっとく)』。
著したのは明治の文豪、森鷗外(もりおうがい、1862~1922)。門の名前は「鷗外の門」と呼ばれます。小説家、翻訳家、軍医など、さまざまな肩書を持った鷗外は、晩年の大正6年(1917)、帝室博物館総長と宮内庁図書頭(ずしょのかみ)の要職に就きました。帝室博物館とは、現在の東京国立博物館、京都国立博物館、奈良国立博物館の前身にあたる博物館を指し、鷗外はこの統括者として尽力しました。博物館の展示改革や、図書館の蔵書目録の作成など、自ら積極的に携わりましたが、なかでも正倉院宝物の調査を行い、一般研究者にもその門戸を広げたことは特筆されます。
その正倉院開封の際、鷗外が滞在した宿舎の門が「鷗外の門」です。鷗外が奈良を訪れたのは大正7年から10年までで、毎秋1か月ほど滞在しました。公務のとき以外は奈良を散策して歩き、「奈良五十首」などの作品を遺しています。
「唐櫃(からびつ)の蓋(ふた)とれば立つ絁(あしぎぬ)の塵もなかなかなつかしきかな」(奈良五十首より)
いまはその宿舎はなく、門のみが残っていますが、古き良き時代の奈良を偲ぶ貴重な建築物となっています。
奈良はその土地がらから、多くの作家や哲学者などに愛されました。1の『暗夜行路』は志賀直哉(1883~1971)著。現在奈良市高畑町にある志賀直哉旧居は、昭和4年から13年まで一家が暮らした場所です。多くの文化人が集ったこの家は高畑サロンと呼ばれ、代表作『暗夜行路』もここで書き上げられました。2の『古寺巡礼』は和辻哲郎(1889~1960)著。哲学者、倫理学者として知られる和辻が、20代で書き上げた本書は、初々しく、また鋭い感性で奈良の仏教美術を記した名著です。3の『大和路・信濃路』は堀辰夫(1904~1953)著。奈良ホテルに宿泊し、古寺を巡った堀の、繊細で素直な筆致が印象深い1冊です。
問題2 |
2014年「第66回正倉院展」に出陳される「鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)」。樹下に立つふくよかな女性の衣服には、かつてある鳥の毛が一面に貼られていたといいます。さて、その鳥とは何でしょうか。 1.オシドリ |
正解は、2の「ヤマドリ」。
ヤマドリは、標高1500m以下の山地に生息する日本の固有種でキジ科に属し、オスは全長125㎝ほどになります。日本では古くから親しまれてきた鳥で、長い尾が美しく、百人一首の柿本人麻呂の歌「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む」がよく知られています。山でばったり出合うことはなかなか難しいヤマドリですが、「春日若宮おん祭」に登場する「馬長児(ばちょうのちご)」の「ひで笠」には、オスの長い尾羽が1本飾られています。
「鳥毛立女屏風」は、正倉院宝物が納められた当時の一覧である『国家珍宝帳(こっかちんぽうちょう)』に記される屏風100畳のうち、「鳥毛立女屏風六」に該当するもので、現在も全6扇が残っています。顔や手、着衣の袖口などに彩色が施された美女のたたずまいや風俗には、盛唐の文化が感じられると言われますが、衣や樹木などには日本産のヤマドリの羽毛が貼り付けられていたことが、微細な残片から推察されており、日本で作られた屏風であることがわかっています。
1の「オシドリ」、3の「オウム」、4の「ヤツガシラ」も、正倉院宝物によく描かれている鳥たちです。いずれも花をくわえた「花喰鳥(はなくいどり)」の意匠でよく描かれます。花喰鳥とはシルクロード起源の〝幸福の鳥〟。こんなところにも正倉院宝物の奥深さを感じることができます。「鳥毛立女屏風」は、2014年の正倉院展で第2・4・5・6扇の計4扇が、また東京国立博物館「日本国宝展」では10月15日(水)~11月3日(月・祝)の期間限定で第 1・3 扇の計 2扇が出陳され、奈良と東京両会場を回れば、全6扇を見ることができます。6人の天平美人に会える貴重な機会、ぜひお出掛けになってはいかがでしょうか。
問題3 |
正倉院展にしばしば出陳され、豊かな表情が魅力的な伎楽面(ぎがくめん)。この伎楽に〝はまってしまった〟歴史上の有名な人物といえば、さて、誰でしょう。 1.聖武天皇 |
正解は、2の「聖徳太子」。
そもそも伎楽とは、飛鳥時代に日本にもたらされ、寺院の法会で上演された日本最古の仮面劇です。欽明天皇(539~572)のとき、伎楽面や装束、楽器などの「伎楽調度」が、呉国(ごこく)の使者から献上されたのが、日本人が伎楽の存在を目で見て認識した最初と言われます。欽明朝は日本にはじめて仏教がもたらされたときで、仏教はいわば時代の最先端の思想でした。またそれを実践するための寺院の建立や法会も盛んに行われました。
伎楽そのものが伝わったのは推古天皇の20年(612)です。百済(くだら)の人、美摩之(みまし)が日本に帰化したとき、自身が呉で学んだという伎楽舞を根付かせようとしました。これをたいへん喜んだのが聖徳太子でした。桜井に伎楽の練習所を設置し、美摩之を住まわせ、真野首弟子(まののおびとでし)、新漢濟文(いまきのあやひとさいもん)らに学ばせたと言います。また伎楽を学び家業とした者は、税を免除するなどの政策を行いました。以後、聖徳太子は四天王寺などに伎楽の調度を寄進し、法会を彩り華やかさを添えるものとして奨励しました。
天平勝宝4年(752)4月9日に行われた大仏開眼法要では、開眼導師をインド僧の菩提僊那が勤め、伎楽舞が法要を華やかに彩ったと考えられています。正倉院に伝わっている伎楽面には、この法要で使われたことがわかっているものが数多くあります。残念ながら伎楽そのものは仏教の変化とともに、鎌倉時代には途絶えてしまいますが、実は意外なところにいまも伎楽の伝統が…。それは伊勢太神楽(いせだいかぐら)の獅子舞や、二十五菩薩練供養などの伝統行事です。とくに秋祭りが盛んになるこれからの季節、獅子舞に伎楽の面影を訪ねてみては?奈良では体育の日の前日の日曜に開催される曽爾(そに)村の門僕(かどふさ)神社の獅子舞などがよく知られています。