第98回 勝手に奈良検定
問題1 |
奈良県中部には、ワラで作った蛇(ジャ)が村を練り歩く伝統行事がいくつも見られます。さて、写真の蛇は、どこの蛇でしょう。 1.田原本町・鍵 |
正解は、3の「御所市(ごせし)・蛇穴(さらぎ)」。
「蛇穴」と書いて「さらぎ」と読ませるとは、なかなかの難読地名ですね。「さらぎ」とは「新しく移り来たところ」という意味と考えられています。なぜ「蛇穴」と書いてそう読むかにはいろいろな説がありますが、「さらぎ」とは「皿器」で、粘土の紐をぐるぐると巻きながら積み上げて土器を作っていったその形が、蛇がとぐろを巻いた様に似ているからとも、蛇が地面に潜るためにつくる穴を「さらき」と呼ぶからとも言われます(池田末則編『奈良の地名由来辞典』を参照)。ともかく、この蛇穴集落を、ワラで作った蛇が練り歩く姿は、地名からしていかにもぴったりです。
この御所市蛇穴のお祭りは「蛇穴の汁かけ祭り」と呼ばれ、毎年5月5日に蛇穴にある野口神社を拠点に行われます。お昼過ぎに神社を出発した10mほどの長さの蛇を、子どもと大人が持って集落中をくまなく練り歩き、ところどころで上下に大きく揺らします。これは「農神(のがみ)祭り」と呼ばれる農耕儀礼の一種で、蛇は最後に境内の蛇塚に巻きつけられます。
奈良県の中部地方には、蛇が登場する農神祭りがいまも各地に残っています。磯城(しき)郡田原本町の鍵・今里の2つの集落の「蛇巻(じゃまき)」(6月の第1日曜)や、橿原市上品寺町の「シャカシャカ祭」(毎年6月5日)も、同じように蛇を担いで練り歩くお祭りです。地域によって蛇の顔つきや長さ、太さ、また最後に木に巻きつけたり、枝に掛けたりと終わり方もいろいろですが、1年の豊作を願うお祭りであることに違いなく、蛇は田を潤す水の象徴とも言われます。途中、蛇に水を飲ませてあげるなど、ほのぼのとした決め事も行われます。昔ながらの素朴な伝統行事に、ぜひお出掛けになってみてはいかがでしょう。
問題2 |
地上300mの日本一の超高層ビルと言えば「あべのハルカス」。では、土器に描かれた楼閣で知られる奈良県の弥生時代の集落遺跡と言えば、さて、次のどれでしょう。 1.唐古・鍵遺跡 |
正解は、1の「唐古(からこ)・鍵(かぎ)遺跡」。
唐古・鍵遺跡は、磯城(しき)郡田原本町の唐古から鍵にかけて広がる弥生時代の環濠集落遺跡です。集落は直径約400mにもなる大きな環濠で囲まれ、遺構面積は約42万平方mもの広さに及びます。大型建物や高床・竪穴住居跡などが検出されたほか、土器、木製農工具、石鏃(せきぞく)、石包丁、骨角器、炭化米、種子、銅鐸の鋳型(いがた)、ヒスイ勾玉(まがたま)など、多種多様な遺物が出土しました。その内容から、弥生時代の近畿地方の盟主的な集落と推定されています。
現在、遺跡の全容は唐古・鍵ミュージアムで知ることができますが、現地には出土遺物をもとに楼閣が復元されており、往時を偲ばせてくれます。この楼閣は、第47次調査で出土した絵画土器の楼閣がモデルです。高さは12.5m、4本の柱に支えられた茅葺き屋根の2階建てで、残念ながら上ることはできません。しかし、描かれた楼閣に特徴的な渦巻き状の屋根飾りはフジヅルで見事に表され、遠目からでもよくわかります。また、土器にある屋根の上の逆S字状の線を渡り鳥と解釈、木製の鳥が東西両面に3羽ずつ置かれています。
2の「纒向(まきむく)遺跡」(桜井市)は、弥生時代末期から古墳時代前期にかけての集落遺跡です。主に3世紀に栄え箸墓古墳も隣接することから、邪馬台国との関係が注目され、出土した大型建物跡は「卑弥呼の宮殿か?」と話題になっています。3の「宮滝遺跡」(吉野町)は吉野川右岸の段丘上に営まれた遺跡で、縄文時代から奈良時代にかけてのさまざまな遺跡が重なり合っています。とくに飛鳥・奈良時代には、天皇の行幸の地とされ、天武・持統天皇や聖武天皇などが滞在した吉野宮が存在したことがわかっています。4の「大福遺跡」(桜井市)は畿内有数の弥生集落遺跡です。国内最古である2世紀後半の木製の仮面の一部が出土しています。
問題3 |
山添村の鍋倉溪は、ごろごろと巨石が並ぶ”岩の川”。伝説によればこの風景は、喧嘩が原因で誕生したそうです。さて、喧嘩をしたのは誰と誰? 1.香久山と耳成山 |
正解は、3の「大和の天狗と伊賀の天狗」。
正確には、大和の神野山の天狗と、伊賀の青葉山の天狗です。奈良市の東の山中に広がる山辺郡山添村は、巨岩・巨石の村として知られます。水ではなく、大きな岩が幅10m、650mにもわたって川のような景観を見せる奇勝・鍋倉溪をはじめ、「長寿岩」や「岩屋枡型」などの巨岩が点在し、いわゆる「磐座(いわくら)」として古くから信仰を集めてきたと考えられています。
伝説によれば、あるとき大和の神野山の天狗と伊賀の青葉山の天狗が喧嘩をしたそうです。青葉山の天狗は神野山の天狗に石の塊や芝をどんどん投げつけ、一方、神野山の天狗は何も投げずにいたため、神野山にはとてつもない量の石が集まり、石が鍋倉渓をつくり、芝は山頂におさまったと言います。またこのとき神野山の天狗が怪我をしたため、その血が山を染めてツツジの花になったとも伝えます。神野山は県立自然公園にも指定され、5月には8000本ものツツジが咲き誇ります。
大和の伝説に残る喧嘩・対決には、さまざまなものがあります。2の香久山と耳成山の喧嘩とは、万葉集の中大兄皇子の歌「香具山は畝傍を愛(を)しと耳成と相争ひき 神代よりかくにあるらし 古もしかにあれこそ うつせみも妻を争ふらしき」(巻1-13)に詠まれたもので、大和三山の香久山と耳成山が、畝傍山を争ったと言います。2の當麻蹴速と野見宿禰は、のちに相撲の祖とされ、垂仁天皇の時代に試合をし、それまで無敵を誇った當麻蹴速が腰を踏み折られて死に、負けてしまったと伝えます。4の前鬼と後鬼は、2匹がいがみ合ったわけではありません。前鬼は下北山村出身の鬼、後鬼は天川村出身の鬼で、前鬼を夫、後鬼を妻とする鬼の夫婦です。2匹は生駒山で暴れに暴れていたところを役行者(えんのぎょうじゃ)に捉えられ、以後行者に従う善い鬼となったのです。