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勝手に奈良検定

第63回 勝手に奈良検定

問題1

毎年6月17日に行われ、写真のような巫女の舞いでも知られるお祭りは、何という神社の、何というお祭りでしょうか。

第63回 勝手に奈良検定

正解

正解は、率川(いさがわ)神社の「三枝祭(さいくさまつり)」。

お祭りにササユリが用いられることから、「ゆりまつり」の名前でも知られます。うすいピンクと赤の装束を身にまとった4人の巫女が、ササユリの花を持って舞う神楽「うま酒みわの舞」はたいへん優美で、祭典の後には七媛女(ななおとめ)やゆり姫らによる市街巡幸も行われ、梅雨どきの奈良市を彩る風物詩となっています。

お祭りの舞台、率川神社は、桜井市の大神神社の境外摂社で、推古天皇元年(593)に祀られました。祭神の「媛蹈■五十鈴姫命(ひめたたらいすずひめのみこと)」はササユリが咲く三輪山麓の狭井川(さいがわ)の岸辺に暮らしていたため、酒樽をササユリで飾り、神前に供えたのが始まりといわれます。大宝元年(701)の『大宝令(たいほうりょう)』には国で行うべき祭りとして既に定められ、大神神社の「鎮花祭(はなしずめのまつり)」とともに、疫病鎮めを祈ります。(※■の文字は、へんが「韋」、つくりは「備」のつくりに同じ)

お祭りでは、古式にのっとった特殊神饌(しんせん)のほか、濁り酒=黒酒(くろき)、清酒=白酒(しろき)を、たくさんのササユリで飾った「そん」(脚つきの曲桶)と「ほとぎ」(台付きの壺)に入れ、神前にお供えします。ササユリは古名を「佐韋(さい)」といいました。「三枝祭」の名前も、この「三枝(さいくさ)の花」をお供えすることに由来しています。なお前日の16日には、ご神花であるササユリを奉納する「ささゆり奉献行列」が行われます。行列は大神神社を出発し、途中、JR桜井線を経由し、JR奈良駅から率川神社まで向かいます。

問題2

室町時代の興福寺大乗院の僧だったこの人は、興福寺に伝わっていた多くの日記類を編纂しました。自身の日記も、室町時代を知る上で重要な資料となっています。さて、この僧は誰でしょう。

正解

正解は、尋尊(じんそん)。

尋尊(1430~1508)は、室町時代から戦国時代にかけての興福寺の僧侶で、学者として名高い一条兼良の子として生まれました。康正2年(1456)に興福寺別当に就任、また代々皇族や貴族の子弟が住職に就いた興福寺大乗院の門跡(もんぜき)でもありました。のちには長谷寺や薬師寺、橘寺の別当にも就任しています。

尋尊は“記録好き”であり、他の人が書き残したさまざまな記録を大事に保護しました。京都を焼け野原にした応仁の乱(1467年~1477年)に際しては、父・一条兼良の残した日記「藤河ノ記」を守り、また興福寺にあった日記等を編纂し「大乗院日記目録」をまとめました。

また自身も、非常に細やかな日記を書き残しています。尋尊の後に大乗院門跡になった政覚、経尋の3代に渡る日記を「大乗院寺社雑事記(だいじょういんじしゃぞうじき)」といい、宝徳2年(1450)から大永7年(1527)までが現存、重要文化財に指定されています。なかでも、宝徳2年(1450)から永正5年(1508)の約60年におよぶ尋尊の日記「尋尊大僧正記」は、応仁・文明の乱前後の社会情勢、土一揆などの事件、世相などを克明に描写した室町中・末期の根本的な史料になっており、日本中世史研究に大きく貢献しています。

問題3

「若葉して御目の雫(しずく)拭はばや」。さて、この有名な句は、誰が、誰を思い詠んだものでしょうか。

正解

正解は、松尾芭蕉が、鑑真和上を思い詠んだ句。

現在、唐招提寺講堂のやや北東(旧開山堂前)に、この句を刻んだ石碑が建っています。

天平勝宝5年(753)、6度目の渡航にしてようやく日本へ渡った鑑真ですが、その目は既に視力を失っていました。江戸時代の元禄元年(1688)、唐招提寺を訪れた俳人・松尾芭蕉は、開山堂で鑑真和上坐像を拝しました。この句はそのときに詠まれたものです。「みずみずしい初夏の若葉で、お見えにならないその目の涙を拭って差し上げたい」。芭蕉は鑑真和上坐像から深い感銘を受け、思慕の情を詠みました。

鑑真和上坐像は奈良時代(8世紀)に造られた現存する最古の肖像彫刻で、鑑真の精神性まで表現した傑作といわれ、国宝となっています。6月6日の鑑真の命日にちなみ、6月5日~7日の3日間、御影堂で鑑真和上坐像の特別開扉が行われます。

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