第61回 勝手に奈良検定
問題1 |
近鉄奈良駅から南へ徒歩約5分、もちいどの通りのなかほどの広場の奥に、小さなお堂が建っています。さて、お堂の中に祀られるこの人は、いったい誰でしょう。ヒントは、同じお堂に祀られる修験道の開祖・役小角(えんのおづぬ)と東大寺です。 |
正解は、理源大師聖宝(りげんだいししょうぼう)。
聖宝は、天長9年(832)に生まれ、延喜9年(909)に没した平安時代はじめの真言宗の僧。空海の実弟の真雅の弟子となり、真言密教を学びました。また京都醍醐寺の開祖でもあります。
聖宝は奈良とも非常にゆかりの深い人です。真言密教を学ぶにあたり、奈良にも勉強にやってきて、「三論・法相(ほっそう)・華厳」の大乗教学を学びます。また貴族社会との交流を避け、吉野で山岳修行に励み、役小角に倣って大峯山の修験道を復興させました。さらに東大寺の別当ともなり、密教と顕教の両方をよく修めました。
誠実で質素な暮らしぶりから大勢の信頼を集めた理源大師聖宝ですが、エピソードからは肝の据わった性格であったこともうかがえます。たとえば東大寺の僧房に暮らしていたころ、そこに棲みついていた鬼神を根負けさせ、とうとう追い出してしまった話、大蛇がいたために山に人が入れなくなり、すっかり衰退してしまった修験道を復興させるため、山に入ってこれを退治した話などなど、面白いものばかり。どれも理源大師聖宝の人並みはずれた力量を表しているといえるでしょう。
問題2 |
春にはユキヤナギの名所として知られ、かつて遣唐使たちが航海の安全を祈願しにやってきたこの寺。ところでこのお寺の立地に由来する「別名」は何でしょう。 |
正解は、隅寺(すみでら)。
まず問題のお寺の正式名称といえば、海龍王寺です。海龍王寺はもともと毘沙門天を本尊として飛鳥時代に建立されたと伝わりますが、天平3年(731)、聖武天皇の皇后である光明皇后によって、改めて現在の地に創建されました。
海龍王寺の名前は、初代の住職であった玄ぼう(げんぼう)のエピソードにちなみます。玄ぼうは遣唐使として中国に渡り、天平6年(734)に一切経5000巻あまりを日本に持ち帰るべく、帰路につきました。ところが、東シナ海で大きな嵐に遭い、出航した4隻のうち玄ぼうの船だけが難を逃れ、種子島を経由して翌年日本に帰りつきます。このとき玄ぼうを救ったのが、一切経のなかにあった「海龍王経」といいます。嵐のなか、必死にこれを唱えた玄ぼうを、仏法を守護する海龍王が守ったといわれ、以来海龍王寺は遣唐使の航海の安全を願う寺ともなりました。
隅寺の名称の由来には、光明皇后宮が置かれた藤原不比等邸の隅に立地するから、あるいは平城京の隅にあるからなど、諸説あります。江戸時代の『大和名勝誌』には「平城宮の東北隅ゆえに隅寺」であると書かれています。春、純白のユキヤナギが境内をすみずみまで埋め尽くし、海龍王寺は1年でもっとも美しい季節を迎えます。
問題3 |
今年は浄土宗の宗祖、法然上人の800年遠忌にあたります。昭和37年(1962)、奈良市内のあるお寺の本尊の体内から、法然上人の真筆が発見されました。さてこのお寺とはどこでしょう。 |
正解は、興善寺。
興善寺は奈良町の十輪院のやや東に位置しています。そもそもは元興寺の子院でした。「奥の寺」と呼ばれ、御霊神社の宮司や南都の楽人たちの墓所として栄えたといいます。天正年間のこと、慶誉上人という浄土宗の僧が訪れ念仏を説きはじめると、次第に信者も増え、天正17年(1589)に本堂が建ったのを機に、浄土宗興善寺となりました。そしてこれと同じ年に、阿弥陀如来立像が本尊として祀られました。
本尊は高さ97.7cm。ヒノキ材の寄木造りで快慶作と伝えられ、鎌倉初期に造られたものと考えられています。像の体内から法然上人の真筆が見つかったのは、昭和37年4月2日のことでした。本尊の修理を控えて行われた調査では、まず像の左肩の接合部が離されましたが、このとき体内から納入文書と漆塗筒形納骨器が見つかり、取り出されたのです。
納入文書は、像の造立に関しての念仏結縁交名(ねんぶつけちえんきょうみょう)で、姓名と念仏の回数が記されています。その数は1548人にもおよびますが、この結縁交名の料紙として「源空」の名前が見つかったのです。源空とはすなわち法然上人のこと。専門家の調査により、別の文書とも筆跡が照合され、間違いなく法然上人の真筆であることがわかったのです。それはまさに、昭和の大発見といえるものでした。