第60回 勝手に奈良検定
問題1 |
斑鳩町の法輪寺の三重塔は、昭和50年(1975)に再建されましたが、これにはある作家の尽力が大きかったといいます。この作家とは誰でしょうか。 |
正解は、幸田文(こうだあや)。
法輪寺は、聖徳太子の御子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)の創建とも伝えられ、法隆寺式の伽藍配置と、飛鳥様式の仏像で知られています。付近に聖徳太子ゆかりの3つの井戸があったことから、別名三井寺(みいでら)とも呼ばれます。法輪寺の三重塔は、法隆寺五重塔、法起寺三重塔とともに斑鳩三塔と呼ばれ、最大で最古の三重塔として国宝に指定されていました。
ところが1944年、落雷により焼失。当時の井ノ上慶覚住職は再建を目指し、全国を勧進行脚(かんじんあんぎゃ)しました。そうしたなか出会ったのが、幸田文でした。幸田文は、住職から聞いた法輪寺の塔が焼け落ちるようすを次のように記しています。「塔は身をよじて、堪えるかにみえてたゆたい、揺らぎつつ、ゆらぎつつ、ついに堪えずどおっと倒れだした、と話された。」(『法輪寺の塔』幸田文全集第19巻)。
父の幸田露伴が小説に書いた東京谷中の五重塔が、放火で炎上してしまった経験をもつ幸田文は、法輪寺の三重塔再建に協力します。解体修理の際に作られた図面を元に、飛鳥様式通りに再建することが決まり、法隆寺の宮大工である西岡楢光・常一らのもとで計画が進みました。井ノ上住職の急逝後は、幸田文自身が積極的に塔再建に奔走、全国を講演して資金を集めました。1973年からの1年間は斑鳩に仮住まいして、工事のようすを見守ったといいます。塔は1975年、創建当初の姿で再建されました。
問題2 |
藤原不比等を祖父にもつこの人物は、聖武天皇のとき九州太宰府に左遷され、反乱を起こしました。奈良市にある鏡神社の祭神ともなったこの人は誰でしょう。 |
正解は、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)。
藤原広嗣は、藤原式家を興した宇合(うまかい)の嫡男です。天平9年(737)に、朝廷で圧倒的な権力を誇っていた藤原4兄弟が、天然痘の流行によって相次いで亡くなると、玄(げん)ぼうと吉備真備を登用した橘諸兄(たちばなのもろえ)が政治を担うこととなりました。玄ぼうは5千巻もの経典を日本に持ち帰ったといわれ、聖武天皇のもとで重用されました。吉備真備は中国の古代文献をもとに、陰陽道、天文、道教などにも詳しく、2人は橘諸兄の側近として活躍するようになります。
藤原家の勢力が大きく後退するなか、天平10年(738)、広嗣は大宰少弐(だざいのしょうに)に任じられ、大宰府に赴任します。広嗣はこの左遷を不服として、吉備真備と玄ぼうをよからぬ人物であるという上奏文を朝廷に送り、天平12年(740)、1万余の兵力を率いて反乱を起こしました。朝廷は1万7千人の兵を派遣し、反乱はあっけなく平定され、広嗣は失意のうちに果てます。
その後、玄ぼうが筑紫に左遷されて亡くなったことから、広嗣の怨霊のせいであるとされ、その霊を慰めるために、九州の唐津に鏡神社が創建されました。新薬師寺の隣にある鏡神社は、唐津の鏡神社から勧請を受けたものと伝えられています。本殿は春日大社の第三殿を移築したもので、一間社春日造建築として、奈良市指定文化財となっています。
問題3 |
薬師寺の「花会式(はなえしき)」は、国家繁栄・五穀豊穣・万民豊楽(ぶらく)を祈る修二会(しゅにえ)の行事です。現在の花会式の姿となったのは、何天皇の時代からでしょうか。 |
正解は、堀河天皇。
「花会式」は、正式には修二会薬師悔過(けか)法要といい、古くは旧暦2月末に行われていました。東大寺の修二会が「お水取り」と称されるように、薬師寺の修二会は10種の造花が本尊に供えられることから「花会式」と呼ばれます。
嘉承2年(1107)、堀河天皇は皇后の病気平癒を薬師如来に祈りました。無事病気が回復したことから、皇后はその翌年、10種類の造花を薬師三尊に供えられるようになりました。花は、梅・桜・桃・山吹・椿・菖蒲・藤・牡丹・菊・百合の10種。1年を彩る美しい花々をかたどった造花が、薬師三尊の前に華やかに飾られます。この造花は、代々これを作り続けてきた2軒の家で、いまもていねいに手作りされています。
薬師寺の花会式は、現在3月30日から4月5日まで行われ、10人の練行衆と呼ばれる僧が法要を勤めます。法要で唱えられる声明(しょうみょう)は、朗々として、天平の時代のおおらかさを感じさせてくれます。5日の結願(けちがん)法要のあとには、鬼追式が行われ、金堂前で鬼たちが松明を振り回して大暴れ、参拝者から大きな歓声が上がります。花会式は、奈良に本格的な春の訪れを告げる風物詩となっています。