第45回 勝手に奈良検定
問題1 |
東大寺大仏開眼法要の導師でもあるインド僧で、奈良市霊山寺(りょうせんじ)にそのお墓といわれる石塔があるのは、誰でしょう。 |
正解は菩提僊那(ぼだいせんな)。
インド人のバラモン僧である菩提僊那(704~760)は、東方にいる文殊菩薩を求め、ヒマラヤから唐に渡り、天平8(736)年に遣唐使の船で来日しました。東大寺大仏建立勧進の立役者・行基に請われ、大安寺に長く住みました。華厳の教えに精通し、優れた密教僧である菩提僊那は、天平勝宝4(752)年、大仏に魂を込める開眼法要の導師となります。病気療養中であった聖武天皇(701~756)が深い信頼を寄せてのことでした。
天平勝宝5(753)年に来日した鑑真(688~763)に比べて知名度は低く、事績もあまり知られていませんが、聖武天皇・行基・良弁とともに、東大寺の創建四聖(しせい)の1人でもあります。二月堂の修二会(しゅにえ)(お水取り)では、ゆかりの人々を記した過去帳に「大仏開眼の導師、天竺(てんじく)の菩提僧正」と読み上げられます。
菩提僊那が寺名をつけたという奈良市の霊山寺の本堂には、21年前に造られた木像が安置され、境内には菩提僊那を祀る廟(びょう)があります。
問題2 |
来る平成22年は平城遷都1300年の年にあたり、盛大な遷都祭も予定されています。江戸時代末に生まれ、明治・大正時代に平城宮跡保存に生涯を捧げた人として知られるのは誰でしょう。 |
正解は棚田嘉十郎(たなだかじゅうろう)。
棚田嘉十郎は、万延元(1860)年4月5日、添上郡須川村(現在の奈良市須川町)に生まれました。奈良公園などの植樹を請け負っていたころから平城宮跡に強い関心を持っていたといいます。784年に都が長岡京に移ってからは、平城京はすっかり放置され、鎌倉時代以降は田畑となり、江戸時代には集落もつくられますが多くの人々はこの地が平城宮跡とは知らないでいました。
1896年、嘉十郎は知人から都跡村(みあとむら)こそが宮跡と知らされますが、当時は相当に荒廃した田畑の状態。関野貞(せきのただす)の平城京大極殿に関する論文をよりどころに、私財を投げ打って平城京跡保存運動に乗り出します。明治39(1906)年に「平城宮址保存会」を設立し宮跡地の買収を進め、明治43(1910)年に「1200年祭」を成功させたことで、ようやく政府・県も平城宮の保存に積極的になりました。
その後も莫大な私財を提供して、大正2(1913)年に「奈良大極殿址保存会」を設立。跡地の買収活動に尽力し、大正11(1922)年に平城宮跡は「史蹟名勝天然記念物保存法」による史蹟に指定されました。しかしやがて嘉十郎は体調を壊して失明、協力者であった溝辺文四郎にも先立たれ、保存運動が他団体に利用されるなどします。責任を痛感した嘉十郎は1921年8月16日に自刃、晩年も苦難の日々でした。現在、朱雀門前には右手で大極殿方向を指差す嘉十郎像が建てられています。
問題3 |
高市郡明日香村・甘樫丘(あまかしのおか)の北西部にあるこの寺跡は、推古天皇の宮跡でもあります。何と呼ばれる寺跡でしょうか。 |
正解は豊浦寺跡(とゆらでらあと)。
6世紀末、仏教の受容を巡っての蘇我氏と物部氏の激しい対立後、蘇我馬子が物部守屋を滅ぼしました。そして592年に即位したのが、わが国初めての女帝・推古天皇です。厩戸皇子(うまやどのおうじ=聖徳太子)が摂政となり、628年までの36年に及ぶ長い治世となりました。
603年に小墾田宮(おはりだのみや)に移るまでの間、推古天皇の宮所であった宮跡に蘇我馬子が豊浦寺を創建しました。日本で初めての尼寺といわれ、小墾田豊浦寺、豊浦尼寺とも呼ばれました。飛鳥寺と対をなす蘇我氏の氏寺であったともいわれています。
数度にわたる発掘調査では、金堂・講堂・塔・回廊の基壇と思われる遺構が確認されました。講堂の規模は東西30m以上・南北22m前後で、飛鳥寺講堂と同規模と推定されています。9世紀には堂宇が崩れ、鎌倉時代に若干再建された後、室町時代以降は衰亡していきますが、講堂跡には現在向原寺が建っています。