第43回 勝手に奈良検定
問題1 |
奈良市内の標高330mの山中に、写真のような巨岩があります。何と呼ばれる石でしょうか。 |
正解は一刀石(いっとうせき)。
奈良市北東部、柳生の山中に天之石立神社(あまのいわだてじんじゃ)があります。「延喜式」に記載されている式内社で、社殿はなく、ご神体は前伏盤、前立盤、後立盤の3つの大きな岩。とくに前立盤は高さ6m、幅7.3m、厚さ1.2mもあり、全体が大きな扉の形をしているのが特徴です。
伝説によれば、高天原で手力雄命(たじからおのみこと)が天岩戸を引き開けたときに、勢いあまってその扉が飛び、この地に落ちたといわれています。うっそうとした林の中に、突如として現れる巨大な苔むした岩は、まさに神が宿る磐座(いわくら)そのもの。巨岩に神霊が宿るとする古代人の自然信仰がうかがえます。
この神社の奥にあるのが「一刀石(いっとうせき)」とよばれる花崗岩の巨石。中央で真っ二つに割れたこの石は、言い伝えによれば柳生石舟斎宗厳(せきしゅうさいむねよし)が、天狗を相手に剣の修行をしているさなか、天狗と間違って切ったものといわれています。たしかに刀ですっぱりと切ったように見えるその割れ方は見事というほかなく、柳生新陰流始祖のエピソードに彩りをそえるものといえます。
問題2 |
藤原京の朱雀大路・南北中軸線の延長線上には、7世紀後半から8世紀初めにかけての終末期古墳が並びます。この線は、何と呼ばれているでしょうか。 |
正解は聖なるライン。
天武天皇によって造営された藤原京の南京極からキトラ古墳までの約3kmの間には菖蒲池古墳、天武・持統陵、中尾山古墳、高松塚古墳、文武天皇陵と、7世紀後半から8世紀初めにかけて造られた終末期古墳が並んでいます。真北を意識して古墳の立地を決めたのではないかとして、この線を「聖なるライン」と提唱したのは、故岸俊男・京都大学名誉教授でした。この線をまっすぐ北に伸ばすと、京都・山科にある天智天皇陵にも到達します。
また、束明神古墳とマルコ山古墳を「聖なるライン」に組み込むと北斗七星の形となります。ひしゃくの柄の先端が天智陵、コの字型の南端がキトラ古墳となり、高句麗では北斗七星が天子の象徴であったことから、皇族を示す「聖なるライン」は北斗七星の形ではないかとの説もあります。
問題3 |
吉野郡川上村大滝出身で、「日本の造林王・吉野林業の父」と呼ばれているのは、誰でしょうか。 |
正解は土倉庄三郎。
奈良県は、県の面積の約70パーセントが山林に覆われ、林業盛んな土地です。特に吉野地方は日本を代表する美しい杉の産地。この吉野林業の中興の祖と呼ばれるのが土倉庄三郎です。
土倉は天保11(1840)年に川上村大滝の山林地主の家に生まれ、16歳で家督を継ぎます。山深い吉野の奥地から材木を効率的に輸送するための吉野川の整備、杉の実の播種法、私財による道路建設等を積極的に行い、苗木の密植と丁寧な育成で優れた材木を生産できるように工夫した「土倉式造林法」を考案します。それは地元吉野だけでなく全国各地(静岡天竜川流域、群馬伊香保、滋賀県塩津、兵庫県但馬、台湾など)にその技術を広めました。明治31(1898)年に出版された「吉野林業全書」にも深く関わっています。
また、私費によって奈良県初の私立小学校を川上村に開校し、同志社大学や日本女子大学の創立にも一役かっています。明治10年代から盛んになった自由民権運動に理解を示し、板垣退助が西欧へ視察する際にその旅費を援助し、立憲政党活動をしていた中島信行の新聞発行にも力を注ぐなど、林業以外の分野でも多大な功績を残しています。土倉庄三郎は吉野大滝村で生涯を過ごし、大正6年(1917)年78歳で亡くなりました。生前の功績を記念して、吉野川沿い鎧掛け岩に「土倉翁造林頌徳記念」の文字が刻印された碑が建立されています。