第41回 勝手に奈良検定
問題1 |
山辺郡山添村に整然と並ぶ寺院礎石。その金堂の規模は唐招提寺の金堂にも引けを取らない大きさと考えられています。国の史跡にも指定されているこの寺院跡は、何という名前の史跡でしょうか(写真は食堂の礎石です)。 |
正解は毛原廃寺(けはらはいじ)。
神野山や月ヶ瀬梅林などで知られる大和高原。その三重県との県境近く、往時の伽藍を彷彿(ほうふつ)とさせるように並ぶ寺院礎石が毛原廃寺跡です。創建の由来や寺名も伝えられていませんが、木材を調達できる山中に位置することから、東大寺大仏殿建立のための杣(そま)支配所とも考えられています。
『大和志料(やまとしりょう)』(上巻)には「気原伽藍址」とあり、礎石の数は170余あったと記載されています。南門、金堂、講堂と推定される建物跡のほか、金堂跡の南には塔跡の礎石も残っています。また北側平坦地にはかつて食堂跡と考えられる礎石が残り(現在は他の場所に安置)、当時は壮大な七堂伽藍であったと推定されています。
近くには、自然石にお地蔵さま6体を彫った石仏があります。「毛原廃寺跡六体地蔵」と呼ばれ、室町後期の作といわれています。廃寺になったあとも、ここが信仰の地であったことを象徴するようなお地蔵さまです。
問題2 |
北葛城郡河合町にあり、県内最大規模の帆立貝形古墳は、何という名前の古墳でしょうか。 |
正解は乙女山古墳(おとめやまこふん)。
乙女山古墳は馬見丘陵の東側斜面にあり、規模は全長約130m、帆立貝形古墳としてはわが国最大級の規模を誇ります。墳丘の周囲には、水田や溜め池に利用されている周濠があり、周濠の外側には外堤が残っています。発掘調査で葺石(ふきいし)や円筒埴輪が確認され、後円部の南西側の造り出しからは、家形・蓋(きぬがさ)形・壷形などの形象埴輪と土器類が出土。埴輪から築造時期は5世紀後半と推定されています。
応永15(1408)年、この周辺で箸尾為妙(いみょう)と筒井順覚の戦いがありました。箸尾氏の少女が命を落とし、この小さい丘に葬られたことから「乙女山」と呼ばれるようになったと言われます。また乙女山古墳の北側は赤坂と呼ばれますが、これもその合戦で流された両軍の血が、あたり一面を赤く染めたことに由来すると言われています。
問題3 |
「万葉集」で「国見の歌」を詠み、在位中に最初の遣唐使を送った天皇は、何という名前の天皇でしょうか。 |
正解は舒明天皇(じょめいてんのう)。
舒明天皇(593?-641)は、日本の第34代天皇で、天智天皇、天武天皇の父にあたります。先代の推古天皇の後継者として、山背大兄王(やましろのおおえのおう)と皇位を争いますが、蘇我蝦夷(そがのえみし)に推されて天皇となりました。在位2年の630年、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)、薬師恵日(くすしえにち)らを第1回遣唐使として送っています。
万葉集巻1の2で、国見をした舒明天皇は次のように詠んでいます。
「大和には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎(かまめ)立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきづしま) 大和の国は」
【意味】大和には山がたくさん集まっている。靄(もや)が立ち込めている。広々とした海には、あちらこちらから鴎(かもめ)が飛び立つ。豊かな素晴らしい国、蜻蛉(とんぼ)飛ぶ日本よ。
当時、天皇の国見とは、すなわち自ら治める国土を眺め賛美し、五穀豊穣の未来を祝う儀礼行為だったといいます。神聖な香具山は、国見儀礼の山とされたました。現在、香具山の西斜面には国見台を想定し、この歌の碑が建てられています。