第40回 勝手に奈良検定
問題1 |
吉野郡十津川村にあり「日本の滝百選」の一つに選ばれている滝があります。滝から続く滝川渓谷の流れは「やまとの水」に選ばれています。何という名前の滝でしょうか。 |
正解は笹の滝(ささのたき)。
十津川村役場から国道168号を北へ約10km、風屋からさらに東へ約12kmのところにある笹の滝。道路に面した滝への入り口から、うねるように根を張った原生林の中を歩くこと約5分、巨大な岩の向こうに勢いよく落ちる滝が現われます。落差32mにもなるこの雄大な滝は、緑の中をごうごうと流れ落ち、色とりどりの巨岩を洗うように、下流へと勢いよく流れています。
幕末、天誅組の伴林光平一行は、風屋から滝川をのぼり、嫁越峠を越えて北山郷白川に出ました。光平は、笹の滝を通りかかったときに『世にしらぬ あわれをこめて しぐるらん 小笹の瀧の 在明の月』と詠んでいます。
この笹の滝は「日本の滝百選」の1つに、笹の滝を上流とする滝川渓谷の水は、県内31ヶ所の「やまとの水」の1つに選ばれています。?県内外から川遊びや釣り人があまごや鮎の渓流釣りを楽しんでいます。?あまごの解禁は3月から、鮎は6月からです。6月には、澄み切った清流に、たくさんの大きなおたまじゃくしの姿を見ることができます。
問題2 |
天理市にあり、全国最大の前方後方墳として知られるのは、何という名前の古墳でしょうか。 |
正解は西山古墳(にしやまこふん)。
西山古墳は、天理市の杣之内古墳群(そまのうちこふんぐん)の中でも最も古い時期に造られた古墳です。前方部を西に向け、全長190m、後方部の一辺が90m、前方部の幅87mで、全国最大の前方後方墳です。しかし、前方後方形をしているのは墳丘の一段目だけで、二段目と三段目は前方後円形という特異な形態をもっています。
古墳の周囲には周濠がめぐり、その跡が前方部に池となって残っています。墳頂には安山岩の板石があり、後方部中心には竪穴式石室があります。出土品は鏡斧、管玉(くだたま)、刀剣片等で、周濠からは車輪石が出土、古墳の外提には埴輪棺、石棺墓などがあります。4世紀後半の築造と推定され、規模の大きさからかつては崇神陵(すじんりょう)と思われていましたが、物部氏の有力者の奥津城とされています。
また、古墳の周濠の北側には、径63.4mの巨大円墳である塚穴山古墳があります。6世紀末から7世紀前半の築造と見られ、石舞台古墳クラスの長さ約17mの横穴式石室が残っています。杣之内古墳群には、ほかに東乗鞍古墳、西乗鞍古墳、小墓古墳などの古墳が点在しています。
問題3 |
元禄時代、宇陀松山藩で起こったお家騒動は、何と呼ばれているでしょう。 |
正解は宇陀崩れ(うだくずれ)。
宇陀市大宇陀区にある宇陀松山城跡は、宇陀地方最大規模の要害堅固な山城です。南北朝時代の宇陀三将の一人といわれる秋山氏が山城を築いて本拠としていました。その後豊臣秀長が郡山城に入ると、豊臣配下の有力武将が相次いで入城し、城下町の整備を整えていきました。このころ城下の町は松山町と呼ばれるようになります。その後1615(元和元)年に織田信長の次男信雄(のぶかつ)が藩主として宇陀の地を領することになり、織田松山藩が成立しました。
宇陀松山藩3代長頼(ながより)のとき、弟の長政に3000石を分与し、4代信武(のぶたけ)の代には藩の財政が窮乏します。打開策をめぐって重臣が対立し、1694(元禄7)年、創業功臣を討ち果たした後に信武も自害しました。この一連のお家騒動を「宇陀崩れ」といい、後継の織田信休(のぶやす)は丹波国柏原へ国替えとなり、宇陀松山藩は廃藩となります。
現在の宇陀松山城は、天守と本丸の郭を軸に、城郭跡や石組・石垣を残しています。城下町の要となる西口関門は、正面の柱間が4.1m、軒高3.7m、一般に黒門と呼ばれ、宇陀松山城の往時を忍ぶ唯一の建物として国の史跡に指定されています。