第37回 勝手に奈良検定
問題1 |
奈良市にあるこのお寺は、平城天皇がこの地に茅葺きの御殿を作って仮住まいされたことから、「萱(かや)の御所」と呼ばれたこともあります。何という名前のお寺でしょうか。 |
正解は不退寺。
大同4(809)年、平城(へいぜい)天皇が譲位した後にここに隠棲し、茅葺きの御殿を作って仮住まいされたことから、建物は「萱の御所」と呼ばれるようになりました。その後、天皇の子阿保親王(あぼしんのう)、孫の在原業平(ありわらのなりひら)が引き継ぎ、業平自らが作った聖観音像を安置して「不退転法輪寺」と称しました。略して「不退寺」といい、南都十五大寺の1つとして栄えました。美男子で知られる業平は『伊勢物語』のモデルともなった人物で、六歌仙の1人。文芸に秀でていたことでも有名です。
切妻造で笈形(おいがた)調の装飾が美しい南門をくぐると、こぢんまりとした境内にはレンギョウ・キショウブ・ツバキ・カキツバタ・ユキヤナギなど、500種類以上の植物が植栽されています。市松格子や菱形格子の欄間が美しい本堂を中心に、単層の多宝塔があり、貴族好みの気品ある佇まいをみせています。
5月1日から31日には在原業平像特別開扉があり、5月28日の業平命日には多宝塔(国の重要文化財)特別開扉と伊勢物語(鎌倉時代末期の写本)の公開があります。
問題2 |
奈良県明日香村にあるこの墓は、天武天皇・持統天皇が合わせて葬られているといわれています。何という名前の墓でしょうか。 |
正解は野口王墓(のぐちおうぼ)。
野口王墓は古墳時代終末期の八角墳で、宮内庁発行『陵墓要覧』では、檜隈大内陵(ひのくまのおおうちのみささぎ)と呼ばれています。墳丘は現在東西約58m、南北径45m、高さ9mの円墳状ですが、本来の墳形は八角形、五段築成で、2室の石室があり、天武天皇と持統天皇を合葬したといわれています。『日本書紀』によると、持統天皇は天皇として初めて火葬にされた人物で、骨は銀製の箱に入れ、金銅の容器に大切に納められたと記されています。
藤原定家の『明月記』に、文暦2(1235)年3月20日・21日両夜に賊が入り、野口王墓が盗掘を受けたことが記されています。その際、石室の記録として『阿不幾乃山陵記(あおきのさんりょうき)』が作られました。これによると「墓泥棒」は「凝灰岩で造られた石室には、奥に赤黒い人骨が一体寝かされていて、手前には金銅製の入れ物に齦(はじし)の壷が入れられていた。壷は金になると思い盗み出したが、中には灰がいっぱい詰まっていた」と書かれていました。
近世に入り、天武・持統陵は、野口大墓と見瀬丸山古墳のどちらが合葬陵であるか不明となり、その後近代に到るまで諸説が入り乱れましたが、明治13(1880)年に、この『阿不幾乃山陵記』が京都・栂尾の高山寺から発見され、明治14年に正式治定されて今日に至っています。
問題3 |
桜井市にある廃寺跡。平安時代に藤原道長がこの寺を訪れ、「堂内の奇偉荘厳は言葉では言い尽くせない」と感嘆するほど当時は壮大な伽藍を誇っていたといいます。何と呼ばれるお寺でしょうか。 |
正解は山田寺。
山田寺は蘇我一族の蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が造営着手した寺院です。石川麻呂は蘇我入鹿が従兄弟にあたる人物ながら、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)ら反蘇我勢力と共謀して、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺事件に加担しました。ところが、石川麻呂の異母弟・蘇我日向(そがのひむか)の密告によって反逆の罪を着せられ、山田寺前で自害しました。その後、寺の造営は頓挫しましたが、676年(天武天皇5年)に塔が完成、次いで講堂が完成、685年(天武天皇14年)には丈六仏像の開眼供養も行われました。
発掘調査により、金堂・塔・回廊・講堂・宝蔵・南門の跡から、四天王寺式伽藍配置と似ていることがわかりました。東面回廊は建物が崩れた状況そのままで発掘され、連子窓(れんじまど)などの建築部材が大量に出土しました。奈良市・興福寺にある仏頭(国宝)は、山田寺本尊薬師如来像の頭部で、文治3(1187)年興福寺衆徒(しゅと)が持ち去ったものです。当時の興福寺は平重衡(たいらのしげひら)の兵火で炎上後、再興の途上にあり、興福寺東金堂の本尊に据えられていましたが、応永18(1411)年の東金堂の火災で焼け落ち、頭部だけが残りました。
會津八一(あいづやいち)は「この寺としての気持ちは、やはり裏手の離々として今も残る二つの土壇に求めねばならぬ」といって、くさふめば くさにかくるる いしずゑの くつのはくしゃに ひびくさびしさ
と、石川麻呂の運命を偲び、歌を詠んでいます。