第27回 勝手に奈良検定
問題1 |
高市郡明日香村の西部、真弓丘陵にあって、別名「あさがお塚」とも呼ばれている古墳。これは何という名前の古墳でしょう。 |
正解は「牽牛子塚(けんごしづか)古墳」。
7世紀後半ごろに築造された、高さ5mほどの二段築成、対角長が約33mの八角形墳です。墳丘の中央には、巨大な凝灰岩をくり抜いて作った横口式石槨があり、内部は幅50cmの壁によって間仕切りされています。長さ2.1m、幅1.2m、高さ1.3mの同じ形の室が東西に並んであり、それぞれの床面に低い棺台があります。
石槨内からは乾漆棺の破片が多数と、棺にとりつけられたと思われる七宝製亀甲形飾金具や、金銅製の六花形・八花形の座金具、ガラス玉などが出土されました。合葬を考えた石槨構造や、優れた出土品から、被葬者は斉明天皇だという説があります。
問題2 |
「若葉して御目の雫拭はばや」と詠んだ芭蕉の句碑が唐招提寺開山堂の前に建てられています。759年に創建されたこのお寺は、誰の旧邸の地に建てられたでしょう。 |
正解は「新田部親王(にいたべしんのう)」。
唐招提寺は、中国の高僧 鑑真和上が、新田部親王の旧宅跡を朝廷から譲り受け、律宗の寺としたものです。鑑真和上は仏教者に戒律を授ける「伝戒の師」として日本に招請されました。出家者は正式の僧となるために「戒壇」という施設で「具足戒」を受けなければなりません。聖武天皇の招聘(しょうへい)に応えて、足掛け12年、5度の渡海の失敗と度重なる艱難辛苦のすえ、両目の光を失いながらも753年に来日しました。
来日後、東大寺で5年を過ごし、759(天平宝字3)年に、今の唐招提寺の地、新田部親王邸跡地を与えられました。広さは4町。境内から出土した幾何学文の古瓦や現存する2棟の校倉造り倉庫の経蔵は、新田部親王邸のものと考えられています。
御影堂の鑑真和上像(国宝)は、我が国最古の肖像彫刻です。瞑目の和上像から誘われる涙と思慕の情を、芭蕉はさわやかに詠んでいます。鑑真和上を偲んで、6月2日から10日まで、御影堂の厨子が開扉され、寿像のお姿を拝観することができます。また和上の故郷、揚州の景色を描いた東山魁夷画伯奉納の障壁画もあわせて公開されています。
問題3 |
大和猿楽に田楽の舞いが加わり、気品高い芸能となりました。川西町結崎に居住し、この芸能を大成させていった親子は、何という名前でしょう。 |
正解は「観阿弥・世阿弥」。
川西町結崎は能楽観世流の発祥の地です。元祖観阿弥結崎清次は、伊賀の国名賀郡小波多に猿楽座を創立し、その後結崎に居を構え「結崎座」としました。その後「観世座」となり、観阿弥はその子世阿弥とともに、猿楽を能楽という幽玄華麗な芸にまで高めていきました。
室町幕府の3代将軍義満は「結崎に好男子あり。いわゆる世阿弥なり」といって、世阿弥を大変寵愛しました。観世座は観阿弥・世阿弥親子二代によって能楽完成に偉大な功績を残し、現在につながっています。
この能楽観世流発祥の地である結崎には、能にまつわる伝説も残されています。「翁面と一束の葱が天から降ってきた。村人はその面を埋め、葱はその地に植えたところ見事に成育し、結崎ネブカとして有名になった」というもの。この言い伝えをもとに、「面塚」と「観世発祥の地」の標石が建立されています。