第22回 勝手に奈良検定
問題1 |
橿原市にある写真の礎石は、何と呼ばれている史跡でしょうか。 |
正解は「本薬師寺跡(もとやくしじあと)」。
近鉄橿原線畝傍御陵(うねびごりょう)前駅から東にほどないところに、「本薬師寺跡」が残っています。681(天武9)年に、天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気回復を祈って建立したといわれるのが、本薬師寺。工事は18年かかったといわれ、698(文武2)年にほぼ完成しましたが、710(和銅3)年の平城京遷都によって、薬師寺は平城京右京6条2坊に移りました。新しい薬師寺に対し、ここは本薬師寺と呼ばれるようになりました。
現在は、金堂と東西両塔の基壇、礎石などが残っています。金堂跡には、正面7間、側面4間、方形の柱座を持つ礎石が残っています。伽藍の配置は、現在の西ノ京にある薬師寺とほぼ同じで、今の薬師寺はここから移築されたのか、あるいは平城京で再建されたのか、論議が繰り返されています。
問題2 |
『古事記』や『日本書紀』に「国栖」の名を残す古地であり、『万葉集』には「司馬野(しばの)」とも詠まれたこの地で、旧暦正月14日に行われるのは、何という神社の何という古舞でしょうか。 |
正解は「浄見原(きよみはら)神社の国栖奏(くずそう)」。
浄見原神社は、南国栖・吉野川の右岸に切り立った岸壁上に鎮座する旧村社です。壬申(じんしん)の乱で、天智天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)はここに兵を挙げ、天智天皇の皇子・大友皇子と対立しました。国栖奏は、この大海人皇子が挙兵したとき、国栖の人が皇子に味方して、なぐさめのために歌舞を奏したことにはじまると言われています。
早朝から、精進潔斎をした筋目といわれる家筋の男性が集まり、舞翁2人、笛翁4人、鼓翁1人、謡翁5人の計12人が、舞殿に登場します。右手に鈴、左手に榊を持った歌翁の謡や、「エンエー」(延栄の意とか)の声にあわせた舞いが古式ゆかしく行われます。神饌(しんせん)には、古代のごちそうだったといわれる腹赤のウグイやアカガエルが生きたまま供えられます。
問題3 |
近世、難波津から大和川をさかのぼって経済活動諸物資を積んでいた川舟のうち、大阪側の舟は剣先船(けんさきぶね)と呼ばれていましたが、大和側の舟は何と呼ばれていたでしょうか。 |
正解は「魚梁船(やなぶね)」。
大和川水運は、王寺町の亀の瀬を境に、上流は魚梁船と呼ばれ、そら豆、小麦、なたね油、ゴボウ、そうめんなど、大和で作られた作物や加工品が、天下の台所・大阪に運ばれていました。逆に、大阪側を航行していたのが剣先船で、大阪から肥料や塩が運ばれていました。
大和川は水深がないため、魚梁船の船底は平らで浅く、長さは15m、幅約1.8m、ムシロ9枚を張って帆にしたもので、約1トンの荷物を運ぶことができました。一時は100隻前後の船が往来した大和川水運でしたが、明治25年に鉄道が開通したことに伴い、河川交通としてはすたれていきました。