第10回 勝手に奈良検定
問題1 |
門前に立つ桜の巨木、彼岸花、そしてまだまだ続きそうな階段…。さて、このお寺の名前はなんでしょう? |
正解は佛隆寺(ぶつりゅうじ)。
宇陀市榛原区にある佛隆寺は、嘉祥3(850)年に、空海の弟子である堅恵(けんね)が建立したと言われる真言宗室生寺派の寺。門前に大きな枝を広げる桜はモチヅキザクラといい、奈良県の天然記念物に指定されており、春は花見客で賑わいます。また秋、境内一面を真っ赤に染め尽くす彼岸花の名所としても知られます。写真の中央にのびる石段は、全部で197段あり、県下3銘段の1つに数えられています。
境内には、横穴式石室によく似た「堅恵の廟(びょう)」と呼ばれる榛原石で築かれた立派な施設があり、これは重要文化財に指定されています。寺は堅恵以前に、興福寺の別当であった修円が建立したという説もあり、境内には修円の墓といわれる十三重石塔も建っていますが、実際は元徳2(1330)年に建てられたものだということがわかっています。
問題2 |
聖武天皇は治世の乱れから、およそ5年のあいだ、都や宮を次々と遷し、自身も転々としたことで知られます。さて、それでは現在は東大寺にある大仏様、「盧舎那大仏造顕の詔」は、いったいどこの都(宮)に滞在中に出されたものでしょうか。 |
正解は紫香楽宮。
聖武天皇は天平12年から天平17年にかけてのおよそ5年間、平城京を離れ遷都や行幸を繰りかえします。そのためこの期間を俗に「彷徨(ほうこう)5年」などとも称します。大まかな足跡は、平城京から現在の京都南部にある恭仁京(くにきょう)へ、ついで滋賀県甲賀市の紫香楽宮(しがらきのみや)、そして大阪府の難波京(なにわきょう)から平城京へというようにたどれます。
そして天平13(741)年、恭仁京で全国に「国分寺・国分尼寺建立の詔」が、天平15(743)年、紫香楽宮で「盧舎那大仏造顕の詔」が出されました。途中で工事は中断されたものの、紫香楽宮の跡地と考えられていた甲賀寺では、鋳造のための骨柱も建てられたことがわかっています。ちなみに甲賀寺跡は長い間、紫香楽宮跡と考えられ、国の史跡にも指定されていますが、近年、そこから北へ離れた宮町遺跡で宮跡を示す遺構がみつかり、現在ではそこに紫香楽宮が置かれたことが確定的となっています。
問題3 |
奈良県内で重要伝統的建造物群保存地区に指定されている2地区といったら、さてどこでしょう。 |
正解は橿原市今井町と、宇陀市大宇陀区の松山地区。
橿原市今井町は、かつて「大和の金は今井に七分」と言われたほどにぎわい、中世の城塞都市として発展しました。東西約600m、南北約300mの区域には江戸から昭和初期までの建造物が軒をつらね、近世初頭の町割りが今でも残されています。区域には、町の形成に中心的役割を果たした称念寺(本堂は重要文化財)をはじめ、重要文化財に指定されている今西家住宅、豊田家住宅などがあります。
一方、宇陀市大宇陀区(旧大宇陀町)の松山地区には、江戸時代後期から戦前までの町並みが残っています。松山地区は松山城の城下町として発達し、その範囲は東西約340m、南北約1470mにおよび、国の重要文化財や指定史跡も含まれています。明治になっても宇陀郡役所、警察署、裁判所も置かれるなど重要な地域であり、交通の要所としても発達しました。今井町、松山地区とも、一歩足を踏み入れればタイムスリップしたような錯覚にとらわれる、懐かしさただよう町です。