vol.15 天理軽便鉄道
掲載日:2015年8月17日
線路は続くよ、100年前から今日の日へ
明治の終わり、丹波市町(現天理市)は天理教教祖30年祭に向けて本部神殿や教祖殿の建築がはじまり、大阪方面からの往来が増加していました。当時は大阪から天理まで、旧関西鉄道の関西本線と桜井線を乗り継ぐうえ、運賃も高く、法隆寺駅から徒歩で向かう人も少なくなかったのです。そんな天理教信者の旅客輸送を見込んで、大正4年(1915)、新法隆寺から天理までの9kmを蒸気運転で直行するミニ鉄道、天理軽便(けいべん)鉄道が開通しました。
天理教の大祭時にはお客が乗り切れないほど賑わいましたが、片道利用が主体で経営は苦しいものでした。そんな折、大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)から「畝傍線」計画に際する買収を持ちかけられます。天鉄側も政府補助金の期限が迫っていたため、交渉は早期に成立。天鉄は開通からわずか6年で解散することに。しかし会社は違えど、平端~天理間はいまも近鉄天理線として活躍中です。2015年には開通100年を迎えました。
チェックポイント!
法隆寺線の遺構を求めて、いざ歩け
地図をたよりに町から町へ
新法隆寺~平端間の「法隆寺線」は、大軌買収後、電化もされず蒸気運転のままでした。昭和3年(1928)にレールカーが投入されるも、戦時中の昭和20年(1945)に不要不急線とされ休止、昭和27年(1952)にそのまま廃線となりました。かつての沿線を歩くと、道路の側溝に残る煉瓦(レンガ)積みやレールの痕跡など、遺構を見つけることができます。
池のなかに浮かぶ廃線
イギリス積みの煉瓦がチラリ
法隆寺線の遺構として見ておきたいのが安堵町・木戸池を2つに割る築堤。これが廃線跡で、水路として開口した部分から煉瓦組みが見えます。こんなに狭い線路をSLが走っていたとは驚きですが、天鉄の線路幅はわずか762㎜、県内唯一の「ナローゲージ(特殊狭軌線)」でした。池の上を軽快に走る列車は、当時の少年たちの心を掴んだに違いありません。
予習に、復習に。安堵町歴史民俗資料館
鉄道に関する資料がズラリ、奈良鉄道や初瀬鉄道も
木戸池から西に1kmほどのところにあるのが安堵町歴史民俗資料館。村の庄屋を務めた今村氏の旧邸宅「今村邸」を利用したこの資料館では、常設展にて天鉄に関する写真や資料を見学できます。SLの次代を担ったレールカーの復元模型は必見。法隆寺線のラストランの日にちなみ、毎年2月11日に同館で模型の運転会が行われています。
造ったのはこんな会社!
天理軽便鉄道株式会社(てんりけいべんてつどうかぶしきがいしゃ)
大正元年(1912)設立~大正10年(1921)大軌へ事業譲渡
生駒郡北倭村(現生駒市)在住の県会議員杉本久三郎らによって設立された大正時代の私設鉄道会社。地名としてよく知られる「天理」ですが、計画段階で天理駅は「新丹波市駅」でした。開業1ケ月後に天理駅に変更されたのですが、付近に同様の地名は見られず、命名が宗教名に由来することは明らか。後の「天理市」の成立や、国鉄(現JR)の駅名も「天理」となるなど、天理が地名として定着した嚆矢は、天鉄にあるともいわれています。
天理軽便鉄道 DATA
住所 | 天理市、大和郡山市、安堵町、斑鳩町に遺構が点在 木戸池には案内板あり。 |
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アクセス | JR・近鉄天理駅から全長9.01km |
設計者 | 天理軽便鉄道株式会社 |
建造年 | 大正4年(1915)2月7日 |
一般公開 | 遺構は見学自由 【安堵町歴史民俗資料館】 9時~17時(入館は16時まで)。 火曜、年末年始休館。 |
問い合わせ | 【安堵町歴史民俗資料館については】 0743-57-5090 |